久能山東照宮

久能山東照宮の久能山とはどういう山なのか

推古天皇の時代、西暦600年ごろ、この山を久能忠仁が開き寺を建立し観音菩薩を御安置されて、それにより補陀落山(ぶだらくさん)久能寺としたとされ、この時久能山という名がついたとされています。

久能寺が開いてからたくさんの僧行基(ぎょうぎ)、また名僧がこの地に住むようになり、建物の数は一時、330坊となったといわれていますが、1225年あたりに起った山麓の失火により類焼してしまい、昔の面影が見られなくなります。

1568年、武田信玄によって久能山が要害であることを聞いて、久能寺を近く、北矢部、現在の静岡市清水区にある鉄舟寺に写し、山上に城砦を設け久能城とします。
1582年、武田氏がほろんだことで駿河国一体を徳川氏が領有することになり、これによって久能山も徳川氏のものとなりました。

1616年、徳川家康公の薨後(律令による皇族または三位以上の帰属が死去された場合に利用する言葉)、久能城は廃止となり、東照宮を建立したことで現在の久能山東照宮となったのです。

久能山東照宮の歴史には徳川家が深くかかわっている

久能城が徳川家康公が薨後し、久能山東照宮となった時から徳川家と深く関係しています。
久能山東照宮のご祭神は徳川家康公です。

三河国、現在の愛知県、岡崎城、戦国時代に生まれ幼少より人質という辛き身分にあった家康公は、様々な苦難を乗り越えついに天下統一を果たした歴史的人物です。
天下統一の際に、征夷大将軍の座に就かれ、徳川の時代に入りやっと戦国時代が幕を閉じ、家康公の治世により国内は回復、産業、学問、文化等が花開き太平の世がやってきました。

駿河国、現在の静岡県にある駿府城で晩年を静かに暮らした家康公は、1616年、波乱の中でも自らの人生をしっかりと貫き生涯を閉じます。
亡くなる前に余命いくばくもないと告げられ、家康公は家臣たちに遺骸は久能山に埋葬するようにとご遺言を残されました。

これにより家臣たちは久能山にご遺骸を遷され、二代将軍徳川秀忠公により久能山に徳川家康公をお祀りする神社を造営するようにと命じます。
中井正清という当代きっての大工棟梁が選ばれ、工事が着工、1年7か月という長きにわたる建立期間を経て久能山東照宮が建立されました。

権現造は当時最高の技術が駆使された最高の芸術品

久能山東照宮は当時、最高技術を持っている大工棟梁が施工し、当時の建築技術、芸術技術が結集された権現造という様式によって建立されています。

日光東照宮等全国各地に造営された東照宮は、全て久能山東照宮が原型とされます。
棟梁を担当した当代きっての技術を持っていた棟梁、中井正清はその生涯の中、国指定特別史跡である名古屋城、重要文化財の仁和寺、国宝、世界遺産の二条城等、国内の名だたる建築物を建築したことでも知られています。

この中でも久能山東照宮は大工棟梁中井清正が手掛けた晩年の傑作とされ、その高い技術が認められ、平成22年国宝指定を受けています。

大改修によって蘇った絢爛豪華な芸術、久能山東照宮御所殿

長きにわたり行われてきた御社殿の大改修を終え、建立された当時と同じ絢爛豪華で極彩色の技巧が今によみがえっています。

当時の大工棟梁、また名だたる大工たちが結集して作られたこの最高芸術作品は、生涯に一度見ておくべきともいわれるくらいに美しいといいます。

現代に見る事のない日本独自の色彩が、見事に今、蘇っています。
建立当時、この極彩色の美しい久能山東照宮に参拝に来られた人たちが、ここに神様が宿るとあしげく参拝されたということも、この神々しいまでの色彩を建築技術を見るにつけ納得してしまいます。